Dum loquimur, fugerit invida aetas. Carpe diem, quam minimum credula postero.
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♥ 旅費問題解決案
源岬派にとっての一大関心事である 「旅費問題」。そして、それに付随する岬君の「アルバイト」問題。
先日、緊急三者会談においてその具体的解決策を話し合った結果、とりあえず、我が家の2人についてはこのような解決を見ることになりましたよ!
小ネタというには随分長くなりましたが、お時間のある方はどうぞ。
一応、『Hand in Hand』 の続きです。
先日、緊急三者会談においてその具体的解決策を話し合った結果、とりあえず、我が家の2人についてはこのような解決を見ることになりましたよ!
小ネタというには随分長くなりましたが、お時間のある方はどうぞ。
一応、『Hand in Hand』 の続きです。
「ところでさ、バイトって何やったんだ?」
すっかり冷めてしまった茶を淹れ直してテーブルの上に置くと、若林はソファに凭れる岬に尋ねた。
今回は短期バイトでドイツまでの旅費を稼いだという話だったが、考えてみれば具体的な内容は聞かされていなかったことにふと気が付いたのだ。
「あ、ありがと。・・・っと、まだ熱いな」
さっそく湯呑みに手を伸ばした岬が、思わぬ熱さにびっくりしたようにすぐに手を引っ込める。そして、若林が腰を落ち着けるのを見届けてから口を開いた。
「えー、バイトはね、引越し屋さんをやりました」
「引越し屋?」
「そ。短期のバイトないかなぁって呟いたら、たまたま井沢もバイトの申し込みをするところでね、『じゃあ、一緒にやるか?』 って」
「井沢と一緒だったのか、バイト」
「うん。井沢はどうしても欲しいものがあるとかでさ。趣味関係のもので結構値段がするから、親に頼まないで自分で買いたいんだって言ってた」
偉いよね、と言いながら、岬は目の前の湯呑みから立ち上る湯気をふっと息で散らす。
「へぇ・・・ で、お前は事情聞かれなかったのか?」
「聞かれたよ。父さんの誕生日プレゼントを買うってことで、適当にごまかしたけどね」
「まぁ、妥当なところだろうな」
頷く若林に、岬が若干苦笑交じりの表情で頷き返した。
「しかしあれだろ? 引っ越しって、家具やらなにやらを運んだりするわけだろ?かなりキツイって聞いたぞ」
「うーん・・・まぁ、確かにね。でも、キツイ分だけいいお金になるんだよ。僕たちは部活があるからレギュラーでバイトするわけにいかないじゃない? だから、どうしても短期で効率よく稼げるバイトになっちゃうわけ」
「なるほどな」
「その点、引越しスタッフはうってつけなんだ。登録しておけば都合のいい時に1日だけでも入れるから。それに僕たち、体力だけはそれこそ売るほどあるからね」
常日頃鍛えてますから、という岬に、
「あぁ、そりゃな。お前が細い身体のわりに体力あるってことは、よーく知ってるよ」
若林がそう言って、ニヤリと意味ありげに笑う。
と、その途端、テーブルの下で岬の脚が目にも止まらぬ速さと滑らかさで動き、華麗な蹴りが若林の向こう脛に決まった。
「痛っ!・・・おい!」
「自業自得」
ざっくり切り捨てながら、岬は湯呑みの縁を注意深く摘まんで持ち上げ、涼しい顔で熱い茶を飲み下した。そして、ふうっと満足の一息をつくと、何事もなかったかのように話を続ける。
「本格的なバイトって初めてだったけど、面白かったなぁ。『仕事が評価されると嬉しい』 っていうけど、あれ、本当だよね。ほら、井沢は身長があるだろ?高い所に楽々手が届くし、力があるからすごく重宝されてた。僕もね、梱包の手際がいいって褒められたりして」
2人して就職しないかって、スカウトされちゃった、と岬が楽しそうに笑う。
「へぇ・・・」
「けど、お金を稼ぐってやっぱり大変なことだよね。自分でバイトしてみて初めて分かったよ」
労働って尊いねぇ、などとしみじみ呟いて、岬は更に茶を啜った。
「いくら体力があるって言っても、部活とバイトがぎっしり詰まってると流石にね。帰ってきて布団に入ったと思ったら一瞬で寝入って、あっという間に次の日の朝って感じだったなぁ」
若干頬がこけたせいだろうか、以前よりも少しだけ大人びた印象のある岬の横顔を見ながら、若林は徐々に複雑な思いが胸に湧きあがってくるのを感じていた。
自分の知らないところで、自分の知らない経験をし、岬は大きくなっていく。
その事実に対する焦りにも似た気持ちは、さっき岬の想いを聞いたことで、すっかり晴れた。
我ながら実に単純かつ現金だとは思うが、「君を守りたい」 という彼の一言は、それに足るだけの重みを持っていたのだ。
だから、今、胸の内にあるこの複雑な感情はそれが原因ではない。敢えて言うならば、「後悔」 という名のそれに一番近いのかもしれなかった。
「・・・ごめんな」
「ごめんって、何が?」
思わず漏らした若林の言葉を岬が繰り返す。彼にしてみれば、いかにも唐突な言葉だったのだろう。きょとんとしたような顔で目を瞬かせた。
「いや・・・ 俺が誕生日プレゼントにお前の顔が見たいって言ったばっかりに、無理させたわけだろ?お前、授業と部活で忙しいのに・・・」
それだけではない。岬は帰宅してからも家事の一切を切り盛りしているのだ。その労力は並大抵のものではないだろう。
若林自身は生まれてこのかた一度も金銭面の苦労をしたことがない。そんな自分の冗談紛れの一言が岬に大きな負担を掛けることになったのだと思えば、俄かに自責の念が襲う。
「俺が考えなしだった。すまん」
若林の再びの謝罪の言葉に、岬はひどく慌てたようだった。
「そんな、違うって!そういう意味で言ったんじゃないんだ。大変だったのは確かだったけど、本当に短期間のことだったし、すごく楽しくていい経験だったしさ」
「でもお前、俺のために・・・」
「いいんだよ。僕が、そうしたかったんだから」
その一言といつも通りの笑顔に、若林は岬に対する愛しさと己の不甲斐なさに堪らないような気分にさせられた。
いつだってこんな風に、自分は岬に守られている。けれど、その裏で岬はどれほど自分の身を削っているのだろう。
「そんな後悔してるみたいな顔されたら、プレゼントした僕の立場がないじゃないか。素直に喜んでよ。僕は君の嬉しそうな顔を見に来たんだから」
ね?ともう一度微笑まれて、若林も苦笑交じりに頷いた。だが、そうは言っても、やはり気持ちは落ち着かない。
「・・・なぁ、岬」
呼びかける声に、岬が目顔で答える。
「前にも一度言ったけどさ・・・」
「なに?」
「交通費のことだけどな、やっぱり俺が払うことにしないか」
「なんで?今だって君の方が多く負担してくれてるのに・・・」
以前からの2人の間の取り決めで、岬が若林のもとを訪れる際の交通費については、若林がその3分の2、岬が残りの3分の1を負担することになっている。
「多くないだろ。お前が時間を負担してくれてる分、俺は金で補ってるだけ。実際はイーブン、あるいは、お前の方が多く負担してるくらいだ」
ドイツで3年ぶりに再会してから、岬は毎週のように若林を訪ねてくるようになった。会いたい気持ちは2人とも同じでありながら、もっぱら移動してくるのが岬だったのは、若林と比べて岬の方がある程度スケジュールの都合が付けやすいこと、そして岬の家には留守がちとはいえ父親もおり、余分な客室もなかったことが主な理由だ。
毎回長距離を移動して会いに来てくれる岬に申し訳なく、また、往復の旅費が馬鹿にならないことも分かっていたので、若林としては全額負担を申し入れたのだが、岬は頑としてそれを受け入れなかった。
当時は2人の関係がまだ浅く、 「友達」 の域を出なかった頃だったから、岬としては若林にそこまで甘えるわけにはいかないと思ったのだろう。
それが分かっていたから、若林としても無理矢理ごり押しすることもできず、結局、双方が納得できるギリギリのラインとして、2対1の割合を決めたのだった。
その取り決めは、2人の関係が 「友達」 から 「恋人」 に昇格した今もそのまま続いている。
岬が日本に帰国し、交通費がこれまでの比ではなくなることに気付いた時点で再度若林が話を振ったものの、その時も 「大丈夫だよ」 と軽くいなされて、結局は有耶無耶なままで終わってしまった。
その後も、気にはかかりながらも、岬が無理のない範囲でやりくりしているのであれば、それ以上口は出すまいと思っていたのだが。
「お前、今回、相当無理しただろ? 会いに来てくれるのは、そりゃ、めちゃくちゃ嬉しいよ。けど、そのために無理はさせたくないんだよ」
「別に無理なんか・・・」
案の定の反論が返ってきて、若林は少し苦笑った。
「嘘つけ。実際のところ、部活とバイトと家事で休む暇もなかったんだろ?お前は自分の苦労は大幅に割引いて話すからな。5割増しくらいで聞かないと。それが証拠に・・・」
さっき抱き締めた時も思ったけど、と言いながら、若林が指先で岬の頬に触れる。
「お前、痩せただろ」
「・・・これは別にバイトのせいじゃ・・・ 多分、前より背が伸びたから、そう感じるだけだよ」
岬が困ったように眼を伏せて口ごもる。形勢有利と見て、若林は更に攻めた。
「仮にそうだとしてもだ。お前、これからもバイトと部活を続けていくつもりか?」
「それは・・・」
「バイトがいい経験になるのは分かるさ。でも、いくら短期だって言ったって、その分お前の時間が削られていくわけだろう?旅費を稼ぐために休日にバイトを入れれば、こっちに来る時間がなくなるかもしれない。それじゃあ、本末転倒じゃないか」
「それはそうだけど・・・」
「お前が気にするのも分かる。・・・けどな、金なんてものは、ある方が払っておけばいいんだよ。金のことに限らず、どっちかが大変な時は、どっちかが支えればいい。そうだろ?」
「でも・・・」
「前も言ったけど、どうしても気になるんだったら、出世払いってことにしてもらってもいい。だから、今はバイトはしないで部活に集中してくれ。それじゃないと、俺の方が気が気じゃないんだよ。頼む」
「若林君・・・」
頭を下げる若林に、岬が戸惑いの色を濃くする。若林の言い分に納得はしてはいるものの、最後の踏ん切りがつかないといったところなのだろう。
もう一押しだという確かな感触を得て、若林は少し口調を改めると更に続けた。
「第一だな、恋人として、それから何よりプレイヤーとして、健康を損なう恐れがあるような行動をみすみす見逃す訳には行かない」
「それは・・・」
「考えてみろ。俺たちだけの問題じゃないぞ。お前が無理して調子を崩したら、親父さんも心配するし、チームのみんなにも迷惑が掛かるだろ?」
岬の弱点が 「父親」 と 「仲間」 であることを分かっていて、敢えて引き合いに出すのはいささか姑息なやり方だとは我ながら思う。
だが、若林としては決して間違ったことは言っていないつもりであったし、なにより、そうとでも言わなければ、頑固な岬は決して首を縦には振らないだろう。その辺り、岬は筋金入りだ。使えるカードは上手く使って、試合を運ぶ必要がある。
言うだけ言った若林は、答えを待って岬をじっと見詰めた。
「・・・分かったよ」
ややあって、頬に浮かべた小さな笑みと共に、岬がようやく承諾の言葉を口にする。
若林はホッとして、肩の力を抜いた。一試合終えた後のような充実感を覚えつつ、我ながらなかなかの試合巧者ぶりだったと心の中でひっそりと自画自賛する。
「君さ」
「ん?」
「僕の扱いが上手くなったよね」
「・・・なんだ。上手くやったと思ってたら、手の内はお見通しだったってわけか」
「まあね」
さらりと述べられた岬のコメントに、若林は苦笑した。
若林が岬の弱点を 「分かっている」 ということを、岬も 「分かっている」 のだろう。切り札を上手く使って誘導したつもりだったのだが、その辺りは全て承知の上で話に乗ってきたということらしい。
「うーん。まだまだだな、俺も」
自賛に浸った後だけに、若林が少々不本意そうな表情を見せる。そんな恋人の様子を見ながら、岬が軽く吹き出した。
「ともかくさ、しっかり現実を見て、ここは素直に甘えさせて貰うよ」
ありがとう、と言って岬が頭を下げる。
「いい、いい。礼なんかいいから、遠慮せず、思う存分どーんと甘えてくれ」
自分の胸を拳で叩きながら至極上機嫌で返す若林に、だが、岬はしっかりと釘をさすことを忘れない。
「でも、あくまでも 『出世払い』 だからね。返せるようになったらちゃんと返すから」
「分かってるって。・・・まぁ、なんにしても、お前が話を受けてくれて良かったよ。これで俺も一安心だ」
若林は満面に笑みを浮かべて頷いた。金を貸す約束をしてこんなに気分がハイになるというのもおかしな話だが、実際にとめどもなく込み上げてくる嬉しさが抑えきれないのだから仕方がない。
「まぁ、実際、君の言う通りなんだよね。これからますます部活が忙しくなって、責任も重くなる。そうしたら、バイトやってる余裕なんかなくなるし」
「だろ?」
「うん。それに・・・」
言いさした岬に若林が視線で先を促す。岬は少し微笑みを返し、あとを続けた。
「それに、ようやく覚悟もできたしね」
「覚悟?」
「そう。・・・前に君が 『出世払い』 の話を持ち出した時、僕が断ったの覚えてる?日本に帰る前」
「あぁ、もちろん。あの時、お前が遠慮なんかしなけりゃ・・・」
言いかけた若林に、だが、岬は困ったように笑って首を振る。
「違うんだ」
「・・・違うって?」
「あれね、別に遠慮してたわけじゃないんだよ。・・・いや、遠慮だけが理由じゃなかったって言った方がいいのかな」
「ほかにもなんか理由があったのか」
問いかける若林に、岬は苦笑の色を濃くして頷いた。
「・・・分からなかったんだ。日本とドイツで離ればなれになって、それでも君と続けて行けるのかどうか。僕が 『出世』 する頃まで、君と一緒にいられるのかどうか」
「・・・あぁ」
「だから、一回、一回、きちんと清算しておきたかった。・・・いつ、それっきりになっても大丈夫なように」
多くの場合、物理的な距離と心の距離は哀しいくらいに比例する。
幼いころから転校を繰り返し、その現実を幾度となく身をもって経験した岬の心情は、若林も痛いほどに知っているつもりだった。
「誰かと長く付き合うなんて、僕には初めてだったから。それまで、そういう 『友達』 もいなかったし、 ましてや・・・」
そこまで言って岬が少し言い淀む。そして、ほのかに照れくさそうな笑みを浮かべると、再び続けた。
「ましてや、『恋人』 はね。だから、どうやって、人との関係を繋げていけばいいのか、繋げようと思って繋がっていくものなのか、分からなかった」
切ることは結構得意だったんだけど、と岬が少し自嘲するかのように呟く。
「その上、ドイツと日本はこんなに距離がある。・・・未来の約束するのが、怖かったんだ、多分。そんな未来は、来ないかもしれないから・・・」
「・・・今は?」
ややあって差し出された若林の問いに、岬が再び照れたような表情を見せる。そして茶を一口啜った後、再びゆっくりと口を開いた。
「今は・・・ 少しずつ、大丈夫だって思えるようになったかな。離れていても、君とならきっと大丈夫だって」
「岬・・・」
「未来のことなんて分からないけれど、行けるところまで君と2人で一緒に行ってみようって、覚悟も出来たから」
岬の語る言葉を聞きながら、先ほどからの不可思議なまでに浮かれるようなこの気分は、単に岬が自分の提案を呑んでくれ、旅費の問題が解決したからというだけではなかったのだと、若林はようやく思い当たった。
「出世払い」 という言葉で岬が2人一緒の未来を約束してくれたことが、きっと何よりも嬉しかったのだ。
改めて岬の目を見れば、淡い茶色の瞳が見つめ返してくる。
「・・・若林君」
「ん?」
「ありがとう」
「・・・だから、礼はいいってさっき言ったろ?」
じっと当てられる岬の視線がなぜだか妙に心を落ち着かなくさせて、若林は少しぬるくなった緑茶を飲みながら、少々そっけなく返事を返した。
その様子に、岬がくすりと小さな笑い声を立てる。
「そうじゃなくてさ。・・・ううん、もちろんそれもあるんだけど・・・ それよりも、離れていても大丈夫だって思えるようになったのは、君のおかげだから。君と・・・」
岬のその言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
荒々しくかき抱く腕と噛みつくような口づけが、岬の全てを飲み込んでしまったから。
「さてと。若林君、忘れないうちに、これね」
はい、という声と共に、岬が1通の大判封筒をテーブルの上に差し出した。薄茶色のそれは、二つ折りになっており、結構厚みがあるようだ。
若林はテレビの画面から視線を上げて持っていた湯呑みを置くと、目の前の封筒を手に取った。
「なんだ、これ?」
言いながら、封を撥ね上げて中を覗いてみる。
その途端、若林は数秒前とまったく同じ台詞を、けれども、込められた驚きの分量を3倍増しにして発した。
「なんだ、これ!?」
「これまで借りてた旅費。あ、これはその明細ね」
思わずまじまじと岬の顔を見詰めた若林の前に、更に一冊のノートが置かれる。戸惑う若林とは裏腹に、岬はと言えば、いつもと変わらず至って穏やかな風情だ。
若林は岬の視線に促されるままにノートを手に取ってめくってみた。
几帳面な字で、日付とルートと利用交通機関、そして金額の記録がきっちりと書き込まれている。
「各回、頭に番号がふってあるだろ?その番号とこっちの領収書の番号が対応してるから」
領収書の束が挟まったファイルを指しながら、岬が続ける。
「はぁ・・・」
「こっちに来る前に僕の方でも再度確認したからミスはないと思うけど、一応チェックしてね」
まるで10年選手の経理担当者のように、岬がてきぱきと説明をする。手にしたノートをパラパラと機械的にめくりながら、若林は完全に置いていかれたような気分になった。
「お前さ・・・」
「ん?どこかおかしな所あった?」
「いや・・・ お前、この金、本当に返すつもりだったのか」
少々呆れたような顔を見せる若林に、岬の方は呆れと剣呑が入り混じった表情で応じる。
「本当にも何も、そういう約束だっただろ?それとも何?若林君は僕が借金を踏み倒すつもりだと思ってたわけ?」
「いや、そういうわけじゃなくてだな、そもそも、俺とお前の間で 『借金』 ってのが・・・」
「僕は君にお金を借りました。だから 『借金』。何も変なことないと思うけど」
「けどな、俺とお前は恋人同士だぞ?」
水臭いにもほどがあるだろう、と若林が渋い顔を見せる。
「それとこれとは話が別でしょ。第一、『出世払いで返す』 って最初から言ってたじゃないか」
「いや、口約束の 『出世払い』 ってのは、ある意味、暗黙の了解っていうか、嘘も方便的な言葉っていうか、貸す方だって本気で返してもらおうとは思ってないもんだろうさ。それを馬鹿正直に返すか?普通」
「そんな勝手な定義知らないよ。ともかくね、僕としては初任給は絶対これの返済に充てるつもりでいたんだから」
「はぁ・・・」
「先週、契約金の一部金が振り込まれたんだ。一気に返せてよかった」
岬は来季からジュビロとプロ契約をすることになっている。今日はその報告を兼ねて久々にドイツの若林のもとに遊びに来ていたのだが、まさかこんな展開になろうとは、若林としては思ってもみないことだった。
だが、少々唖然とする若林をよそに、岬は丁寧に頭を下げる。
「長いことありがとう。お世話になりました」
「・・・なんつーか、そんな風に言われると、むちゃくちゃ複雑な気分だな・・・」
金で過去を清算されてる気分だとぼやけば、岬が軽く噴き出す。
「まぁ、確かに過去を清算しているわけだけどね。でも、別に思い出まで清算するわけでもないし、未来がなくなるわけでもないし」
「それはそうだけどな・・・」
「ともかく約束なんだから、つべこべ言わないでちゃんと受け取ること!」
はい、と改めて勢いよく封筒を押し付けられて、若林は仕方なく結構重みのあるその封筒を受け取った。ここでいくら押し問答したところで埒は明くまい。この件に関して岬が折れるとは到底思えなかった。
「・・・分かったよ。確かにご返済承りました」
丁寧に頭を下げ返す若林に、岬が楽しげにくすくすと笑う。その笑顔はいつにも増して明るい。それはもちろん、 「借金」 の返済が済んだからというわけではなく、やはりプロ契約が決まった晴れがましい喜びからくるものなのだろう。
若林は、眩しさとある種の感慨とが入り混じったような面持ちで、恋人の笑みを見詰めた。
その視線に気が付いたのか、岬が目と口を笑みの形にしたまま尋ねてくる。
「・・・ん?どうかした?」
「いや。・・・まぁ、これは素直に受け取るよ。けど、その代わり・・・」
「その代わり?」
「次のヴァカンスの費用は全額俺の奢りな」
「なんでだよ。それとこれとは・・・」
それまでの話とまったく脈絡も関連性もない申し出に岬が反論しようとするのを、片手の動きで軽く封じて若林が言葉を重ねる。
「プロ契約の祝いだ。精々奮発させてもらうから、覚悟しとけよ」
「でも・・・」
岬は尚も承服しかねる様子で口ごもる。若林は小さく笑って、テーブルに置かれた岬の手の上に自らの手を重ねた。
「・・・なぁ、岬」
岬の視線が重なり合った2人の手から、若林の目へと向けられる。昔から変わらない、透き通るような茶色の瞳を見詰め返しながら、若林は続けた。
「お前がここまで来るのに、どれだけの壁を乗り越えてきたのか、俺は知ってる」
「若林君・・・」
「だから、凄ぇ嬉しいんだよ。自分が1軍に上がった時の何倍も嬉しいんだ。その気持ちを形にしたい、一緒に祝いたいと思っちゃいけないか?」
「それは・・・」
「本当は、ヴァカンス程度で形に出来るような嬉しさじゃない。それでも、これまでお前がピッチに戻ってくるのを待ち続けていた仲間の1人として、何かさせてくれたっていいだろう?」
握る手の力を強くすれば、岬が少し視線を伏せる。その睫毛が僅かに震えたような気がした。
「・・・そもそもだな、これは貢ぎ好きな恋人を持ったお前の宿命なんだ。つべこべ言わずに受け取れ」
最後は幾分偉そうに若林がそう締めくくると、岬は小さな声で 「ありがとう」 と告げた。
そして、ふっと軽く息をついて視線を上げると、苦笑交じりに言う。
「・・・君さ、僕の扱いが上手くなったよね、ホント」
その言葉に若林は眉間に軽くしわを寄せ、深刻ぶった様子で首を左右に振った。
「いやいや、まだまだ」
「そう?」
「あぁ。一生勉強ですとも、岬さんに関しては」
若林が長い手を伸ばして岬を引き寄せ、胸の内に抱きしめる。そして、その耳元に口づけるように囁いた。
「一生、な」
END
すっかり冷めてしまった茶を淹れ直してテーブルの上に置くと、若林はソファに凭れる岬に尋ねた。
今回は短期バイトでドイツまでの旅費を稼いだという話だったが、考えてみれば具体的な内容は聞かされていなかったことにふと気が付いたのだ。
「あ、ありがと。・・・っと、まだ熱いな」
さっそく湯呑みに手を伸ばした岬が、思わぬ熱さにびっくりしたようにすぐに手を引っ込める。そして、若林が腰を落ち着けるのを見届けてから口を開いた。
「えー、バイトはね、引越し屋さんをやりました」
「引越し屋?」
「そ。短期のバイトないかなぁって呟いたら、たまたま井沢もバイトの申し込みをするところでね、『じゃあ、一緒にやるか?』 って」
「井沢と一緒だったのか、バイト」
「うん。井沢はどうしても欲しいものがあるとかでさ。趣味関係のもので結構値段がするから、親に頼まないで自分で買いたいんだって言ってた」
偉いよね、と言いながら、岬は目の前の湯呑みから立ち上る湯気をふっと息で散らす。
「へぇ・・・ で、お前は事情聞かれなかったのか?」
「聞かれたよ。父さんの誕生日プレゼントを買うってことで、適当にごまかしたけどね」
「まぁ、妥当なところだろうな」
頷く若林に、岬が若干苦笑交じりの表情で頷き返した。
「しかしあれだろ? 引っ越しって、家具やらなにやらを運んだりするわけだろ?かなりキツイって聞いたぞ」
「うーん・・・まぁ、確かにね。でも、キツイ分だけいいお金になるんだよ。僕たちは部活があるからレギュラーでバイトするわけにいかないじゃない? だから、どうしても短期で効率よく稼げるバイトになっちゃうわけ」
「なるほどな」
「その点、引越しスタッフはうってつけなんだ。登録しておけば都合のいい時に1日だけでも入れるから。それに僕たち、体力だけはそれこそ売るほどあるからね」
常日頃鍛えてますから、という岬に、
「あぁ、そりゃな。お前が細い身体のわりに体力あるってことは、よーく知ってるよ」
若林がそう言って、ニヤリと意味ありげに笑う。
と、その途端、テーブルの下で岬の脚が目にも止まらぬ速さと滑らかさで動き、華麗な蹴りが若林の向こう脛に決まった。
「痛っ!・・・おい!」
「自業自得」
ざっくり切り捨てながら、岬は湯呑みの縁を注意深く摘まんで持ち上げ、涼しい顔で熱い茶を飲み下した。そして、ふうっと満足の一息をつくと、何事もなかったかのように話を続ける。
「本格的なバイトって初めてだったけど、面白かったなぁ。『仕事が評価されると嬉しい』 っていうけど、あれ、本当だよね。ほら、井沢は身長があるだろ?高い所に楽々手が届くし、力があるからすごく重宝されてた。僕もね、梱包の手際がいいって褒められたりして」
2人して就職しないかって、スカウトされちゃった、と岬が楽しそうに笑う。
「へぇ・・・」
「けど、お金を稼ぐってやっぱり大変なことだよね。自分でバイトしてみて初めて分かったよ」
労働って尊いねぇ、などとしみじみ呟いて、岬は更に茶を啜った。
「いくら体力があるって言っても、部活とバイトがぎっしり詰まってると流石にね。帰ってきて布団に入ったと思ったら一瞬で寝入って、あっという間に次の日の朝って感じだったなぁ」
若干頬がこけたせいだろうか、以前よりも少しだけ大人びた印象のある岬の横顔を見ながら、若林は徐々に複雑な思いが胸に湧きあがってくるのを感じていた。
自分の知らないところで、自分の知らない経験をし、岬は大きくなっていく。
その事実に対する焦りにも似た気持ちは、さっき岬の想いを聞いたことで、すっかり晴れた。
我ながら実に単純かつ現金だとは思うが、「君を守りたい」 という彼の一言は、それに足るだけの重みを持っていたのだ。
だから、今、胸の内にあるこの複雑な感情はそれが原因ではない。敢えて言うならば、「後悔」 という名のそれに一番近いのかもしれなかった。
「・・・ごめんな」
「ごめんって、何が?」
思わず漏らした若林の言葉を岬が繰り返す。彼にしてみれば、いかにも唐突な言葉だったのだろう。きょとんとしたような顔で目を瞬かせた。
「いや・・・ 俺が誕生日プレゼントにお前の顔が見たいって言ったばっかりに、無理させたわけだろ?お前、授業と部活で忙しいのに・・・」
それだけではない。岬は帰宅してからも家事の一切を切り盛りしているのだ。その労力は並大抵のものではないだろう。
若林自身は生まれてこのかた一度も金銭面の苦労をしたことがない。そんな自分の冗談紛れの一言が岬に大きな負担を掛けることになったのだと思えば、俄かに自責の念が襲う。
「俺が考えなしだった。すまん」
若林の再びの謝罪の言葉に、岬はひどく慌てたようだった。
「そんな、違うって!そういう意味で言ったんじゃないんだ。大変だったのは確かだったけど、本当に短期間のことだったし、すごく楽しくていい経験だったしさ」
「でもお前、俺のために・・・」
「いいんだよ。僕が、そうしたかったんだから」
その一言といつも通りの笑顔に、若林は岬に対する愛しさと己の不甲斐なさに堪らないような気分にさせられた。
いつだってこんな風に、自分は岬に守られている。けれど、その裏で岬はどれほど自分の身を削っているのだろう。
「そんな後悔してるみたいな顔されたら、プレゼントした僕の立場がないじゃないか。素直に喜んでよ。僕は君の嬉しそうな顔を見に来たんだから」
ね?ともう一度微笑まれて、若林も苦笑交じりに頷いた。だが、そうは言っても、やはり気持ちは落ち着かない。
「・・・なぁ、岬」
呼びかける声に、岬が目顔で答える。
「前にも一度言ったけどさ・・・」
「なに?」
「交通費のことだけどな、やっぱり俺が払うことにしないか」
「なんで?今だって君の方が多く負担してくれてるのに・・・」
以前からの2人の間の取り決めで、岬が若林のもとを訪れる際の交通費については、若林がその3分の2、岬が残りの3分の1を負担することになっている。
「多くないだろ。お前が時間を負担してくれてる分、俺は金で補ってるだけ。実際はイーブン、あるいは、お前の方が多く負担してるくらいだ」
ドイツで3年ぶりに再会してから、岬は毎週のように若林を訪ねてくるようになった。会いたい気持ちは2人とも同じでありながら、もっぱら移動してくるのが岬だったのは、若林と比べて岬の方がある程度スケジュールの都合が付けやすいこと、そして岬の家には留守がちとはいえ父親もおり、余分な客室もなかったことが主な理由だ。
毎回長距離を移動して会いに来てくれる岬に申し訳なく、また、往復の旅費が馬鹿にならないことも分かっていたので、若林としては全額負担を申し入れたのだが、岬は頑としてそれを受け入れなかった。
当時は2人の関係がまだ浅く、 「友達」 の域を出なかった頃だったから、岬としては若林にそこまで甘えるわけにはいかないと思ったのだろう。
それが分かっていたから、若林としても無理矢理ごり押しすることもできず、結局、双方が納得できるギリギリのラインとして、2対1の割合を決めたのだった。
その取り決めは、2人の関係が 「友達」 から 「恋人」 に昇格した今もそのまま続いている。
岬が日本に帰国し、交通費がこれまでの比ではなくなることに気付いた時点で再度若林が話を振ったものの、その時も 「大丈夫だよ」 と軽くいなされて、結局は有耶無耶なままで終わってしまった。
その後も、気にはかかりながらも、岬が無理のない範囲でやりくりしているのであれば、それ以上口は出すまいと思っていたのだが。
「お前、今回、相当無理しただろ? 会いに来てくれるのは、そりゃ、めちゃくちゃ嬉しいよ。けど、そのために無理はさせたくないんだよ」
「別に無理なんか・・・」
案の定の反論が返ってきて、若林は少し苦笑った。
「嘘つけ。実際のところ、部活とバイトと家事で休む暇もなかったんだろ?お前は自分の苦労は大幅に割引いて話すからな。5割増しくらいで聞かないと。それが証拠に・・・」
さっき抱き締めた時も思ったけど、と言いながら、若林が指先で岬の頬に触れる。
「お前、痩せただろ」
「・・・これは別にバイトのせいじゃ・・・ 多分、前より背が伸びたから、そう感じるだけだよ」
岬が困ったように眼を伏せて口ごもる。形勢有利と見て、若林は更に攻めた。
「仮にそうだとしてもだ。お前、これからもバイトと部活を続けていくつもりか?」
「それは・・・」
「バイトがいい経験になるのは分かるさ。でも、いくら短期だって言ったって、その分お前の時間が削られていくわけだろう?旅費を稼ぐために休日にバイトを入れれば、こっちに来る時間がなくなるかもしれない。それじゃあ、本末転倒じゃないか」
「それはそうだけど・・・」
「お前が気にするのも分かる。・・・けどな、金なんてものは、ある方が払っておけばいいんだよ。金のことに限らず、どっちかが大変な時は、どっちかが支えればいい。そうだろ?」
「でも・・・」
「前も言ったけど、どうしても気になるんだったら、出世払いってことにしてもらってもいい。だから、今はバイトはしないで部活に集中してくれ。それじゃないと、俺の方が気が気じゃないんだよ。頼む」
「若林君・・・」
頭を下げる若林に、岬が戸惑いの色を濃くする。若林の言い分に納得はしてはいるものの、最後の踏ん切りがつかないといったところなのだろう。
もう一押しだという確かな感触を得て、若林は少し口調を改めると更に続けた。
「第一だな、恋人として、それから何よりプレイヤーとして、健康を損なう恐れがあるような行動をみすみす見逃す訳には行かない」
「それは・・・」
「考えてみろ。俺たちだけの問題じゃないぞ。お前が無理して調子を崩したら、親父さんも心配するし、チームのみんなにも迷惑が掛かるだろ?」
岬の弱点が 「父親」 と 「仲間」 であることを分かっていて、敢えて引き合いに出すのはいささか姑息なやり方だとは我ながら思う。
だが、若林としては決して間違ったことは言っていないつもりであったし、なにより、そうとでも言わなければ、頑固な岬は決して首を縦には振らないだろう。その辺り、岬は筋金入りだ。使えるカードは上手く使って、試合を運ぶ必要がある。
言うだけ言った若林は、答えを待って岬をじっと見詰めた。
「・・・分かったよ」
ややあって、頬に浮かべた小さな笑みと共に、岬がようやく承諾の言葉を口にする。
若林はホッとして、肩の力を抜いた。一試合終えた後のような充実感を覚えつつ、我ながらなかなかの試合巧者ぶりだったと心の中でひっそりと自画自賛する。
「君さ」
「ん?」
「僕の扱いが上手くなったよね」
「・・・なんだ。上手くやったと思ってたら、手の内はお見通しだったってわけか」
「まあね」
さらりと述べられた岬のコメントに、若林は苦笑した。
若林が岬の弱点を 「分かっている」 ということを、岬も 「分かっている」 のだろう。切り札を上手く使って誘導したつもりだったのだが、その辺りは全て承知の上で話に乗ってきたということらしい。
「うーん。まだまだだな、俺も」
自賛に浸った後だけに、若林が少々不本意そうな表情を見せる。そんな恋人の様子を見ながら、岬が軽く吹き出した。
「ともかくさ、しっかり現実を見て、ここは素直に甘えさせて貰うよ」
ありがとう、と言って岬が頭を下げる。
「いい、いい。礼なんかいいから、遠慮せず、思う存分どーんと甘えてくれ」
自分の胸を拳で叩きながら至極上機嫌で返す若林に、だが、岬はしっかりと釘をさすことを忘れない。
「でも、あくまでも 『出世払い』 だからね。返せるようになったらちゃんと返すから」
「分かってるって。・・・まぁ、なんにしても、お前が話を受けてくれて良かったよ。これで俺も一安心だ」
若林は満面に笑みを浮かべて頷いた。金を貸す約束をしてこんなに気分がハイになるというのもおかしな話だが、実際にとめどもなく込み上げてくる嬉しさが抑えきれないのだから仕方がない。
「まぁ、実際、君の言う通りなんだよね。これからますます部活が忙しくなって、責任も重くなる。そうしたら、バイトやってる余裕なんかなくなるし」
「だろ?」
「うん。それに・・・」
言いさした岬に若林が視線で先を促す。岬は少し微笑みを返し、あとを続けた。
「それに、ようやく覚悟もできたしね」
「覚悟?」
「そう。・・・前に君が 『出世払い』 の話を持ち出した時、僕が断ったの覚えてる?日本に帰る前」
「あぁ、もちろん。あの時、お前が遠慮なんかしなけりゃ・・・」
言いかけた若林に、だが、岬は困ったように笑って首を振る。
「違うんだ」
「・・・違うって?」
「あれね、別に遠慮してたわけじゃないんだよ。・・・いや、遠慮だけが理由じゃなかったって言った方がいいのかな」
「ほかにもなんか理由があったのか」
問いかける若林に、岬は苦笑の色を濃くして頷いた。
「・・・分からなかったんだ。日本とドイツで離ればなれになって、それでも君と続けて行けるのかどうか。僕が 『出世』 する頃まで、君と一緒にいられるのかどうか」
「・・・あぁ」
「だから、一回、一回、きちんと清算しておきたかった。・・・いつ、それっきりになっても大丈夫なように」
多くの場合、物理的な距離と心の距離は哀しいくらいに比例する。
幼いころから転校を繰り返し、その現実を幾度となく身をもって経験した岬の心情は、若林も痛いほどに知っているつもりだった。
「誰かと長く付き合うなんて、僕には初めてだったから。それまで、そういう 『友達』 もいなかったし、 ましてや・・・」
そこまで言って岬が少し言い淀む。そして、ほのかに照れくさそうな笑みを浮かべると、再び続けた。
「ましてや、『恋人』 はね。だから、どうやって、人との関係を繋げていけばいいのか、繋げようと思って繋がっていくものなのか、分からなかった」
切ることは結構得意だったんだけど、と岬が少し自嘲するかのように呟く。
「その上、ドイツと日本はこんなに距離がある。・・・未来の約束するのが、怖かったんだ、多分。そんな未来は、来ないかもしれないから・・・」
「・・・今は?」
ややあって差し出された若林の問いに、岬が再び照れたような表情を見せる。そして茶を一口啜った後、再びゆっくりと口を開いた。
「今は・・・ 少しずつ、大丈夫だって思えるようになったかな。離れていても、君とならきっと大丈夫だって」
「岬・・・」
「未来のことなんて分からないけれど、行けるところまで君と2人で一緒に行ってみようって、覚悟も出来たから」
岬の語る言葉を聞きながら、先ほどからの不可思議なまでに浮かれるようなこの気分は、単に岬が自分の提案を呑んでくれ、旅費の問題が解決したからというだけではなかったのだと、若林はようやく思い当たった。
「出世払い」 という言葉で岬が2人一緒の未来を約束してくれたことが、きっと何よりも嬉しかったのだ。
改めて岬の目を見れば、淡い茶色の瞳が見つめ返してくる。
「・・・若林君」
「ん?」
「ありがとう」
「・・・だから、礼はいいってさっき言ったろ?」
じっと当てられる岬の視線がなぜだか妙に心を落ち着かなくさせて、若林は少しぬるくなった緑茶を飲みながら、少々そっけなく返事を返した。
その様子に、岬がくすりと小さな笑い声を立てる。
「そうじゃなくてさ。・・・ううん、もちろんそれもあるんだけど・・・ それよりも、離れていても大丈夫だって思えるようになったのは、君のおかげだから。君と・・・」
岬のその言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
荒々しくかき抱く腕と噛みつくような口づけが、岬の全てを飲み込んでしまったから。
「さてと。若林君、忘れないうちに、これね」
はい、という声と共に、岬が1通の大判封筒をテーブルの上に差し出した。薄茶色のそれは、二つ折りになっており、結構厚みがあるようだ。
若林はテレビの画面から視線を上げて持っていた湯呑みを置くと、目の前の封筒を手に取った。
「なんだ、これ?」
言いながら、封を撥ね上げて中を覗いてみる。
その途端、若林は数秒前とまったく同じ台詞を、けれども、込められた驚きの分量を3倍増しにして発した。
「なんだ、これ!?」
「これまで借りてた旅費。あ、これはその明細ね」
思わずまじまじと岬の顔を見詰めた若林の前に、更に一冊のノートが置かれる。戸惑う若林とは裏腹に、岬はと言えば、いつもと変わらず至って穏やかな風情だ。
若林は岬の視線に促されるままにノートを手に取ってめくってみた。
几帳面な字で、日付とルートと利用交通機関、そして金額の記録がきっちりと書き込まれている。
「各回、頭に番号がふってあるだろ?その番号とこっちの領収書の番号が対応してるから」
領収書の束が挟まったファイルを指しながら、岬が続ける。
「はぁ・・・」
「こっちに来る前に僕の方でも再度確認したからミスはないと思うけど、一応チェックしてね」
まるで10年選手の経理担当者のように、岬がてきぱきと説明をする。手にしたノートをパラパラと機械的にめくりながら、若林は完全に置いていかれたような気分になった。
「お前さ・・・」
「ん?どこかおかしな所あった?」
「いや・・・ お前、この金、本当に返すつもりだったのか」
少々呆れたような顔を見せる若林に、岬の方は呆れと剣呑が入り混じった表情で応じる。
「本当にも何も、そういう約束だっただろ?それとも何?若林君は僕が借金を踏み倒すつもりだと思ってたわけ?」
「いや、そういうわけじゃなくてだな、そもそも、俺とお前の間で 『借金』 ってのが・・・」
「僕は君にお金を借りました。だから 『借金』。何も変なことないと思うけど」
「けどな、俺とお前は恋人同士だぞ?」
水臭いにもほどがあるだろう、と若林が渋い顔を見せる。
「それとこれとは話が別でしょ。第一、『出世払いで返す』 って最初から言ってたじゃないか」
「いや、口約束の 『出世払い』 ってのは、ある意味、暗黙の了解っていうか、嘘も方便的な言葉っていうか、貸す方だって本気で返してもらおうとは思ってないもんだろうさ。それを馬鹿正直に返すか?普通」
「そんな勝手な定義知らないよ。ともかくね、僕としては初任給は絶対これの返済に充てるつもりでいたんだから」
「はぁ・・・」
「先週、契約金の一部金が振り込まれたんだ。一気に返せてよかった」
岬は来季からジュビロとプロ契約をすることになっている。今日はその報告を兼ねて久々にドイツの若林のもとに遊びに来ていたのだが、まさかこんな展開になろうとは、若林としては思ってもみないことだった。
だが、少々唖然とする若林をよそに、岬は丁寧に頭を下げる。
「長いことありがとう。お世話になりました」
「・・・なんつーか、そんな風に言われると、むちゃくちゃ複雑な気分だな・・・」
金で過去を清算されてる気分だとぼやけば、岬が軽く噴き出す。
「まぁ、確かに過去を清算しているわけだけどね。でも、別に思い出まで清算するわけでもないし、未来がなくなるわけでもないし」
「それはそうだけどな・・・」
「ともかく約束なんだから、つべこべ言わないでちゃんと受け取ること!」
はい、と改めて勢いよく封筒を押し付けられて、若林は仕方なく結構重みのあるその封筒を受け取った。ここでいくら押し問答したところで埒は明くまい。この件に関して岬が折れるとは到底思えなかった。
「・・・分かったよ。確かにご返済承りました」
丁寧に頭を下げ返す若林に、岬が楽しげにくすくすと笑う。その笑顔はいつにも増して明るい。それはもちろん、 「借金」 の返済が済んだからというわけではなく、やはりプロ契約が決まった晴れがましい喜びからくるものなのだろう。
若林は、眩しさとある種の感慨とが入り混じったような面持ちで、恋人の笑みを見詰めた。
その視線に気が付いたのか、岬が目と口を笑みの形にしたまま尋ねてくる。
「・・・ん?どうかした?」
「いや。・・・まぁ、これは素直に受け取るよ。けど、その代わり・・・」
「その代わり?」
「次のヴァカンスの費用は全額俺の奢りな」
「なんでだよ。それとこれとは・・・」
それまでの話とまったく脈絡も関連性もない申し出に岬が反論しようとするのを、片手の動きで軽く封じて若林が言葉を重ねる。
「プロ契約の祝いだ。精々奮発させてもらうから、覚悟しとけよ」
「でも・・・」
岬は尚も承服しかねる様子で口ごもる。若林は小さく笑って、テーブルに置かれた岬の手の上に自らの手を重ねた。
「・・・なぁ、岬」
岬の視線が重なり合った2人の手から、若林の目へと向けられる。昔から変わらない、透き通るような茶色の瞳を見詰め返しながら、若林は続けた。
「お前がここまで来るのに、どれだけの壁を乗り越えてきたのか、俺は知ってる」
「若林君・・・」
「だから、凄ぇ嬉しいんだよ。自分が1軍に上がった時の何倍も嬉しいんだ。その気持ちを形にしたい、一緒に祝いたいと思っちゃいけないか?」
「それは・・・」
「本当は、ヴァカンス程度で形に出来るような嬉しさじゃない。それでも、これまでお前がピッチに戻ってくるのを待ち続けていた仲間の1人として、何かさせてくれたっていいだろう?」
握る手の力を強くすれば、岬が少し視線を伏せる。その睫毛が僅かに震えたような気がした。
「・・・そもそもだな、これは貢ぎ好きな恋人を持ったお前の宿命なんだ。つべこべ言わずに受け取れ」
最後は幾分偉そうに若林がそう締めくくると、岬は小さな声で 「ありがとう」 と告げた。
そして、ふっと軽く息をついて視線を上げると、苦笑交じりに言う。
「・・・君さ、僕の扱いが上手くなったよね、ホント」
その言葉に若林は眉間に軽くしわを寄せ、深刻ぶった様子で首を左右に振った。
「いやいや、まだまだ」
「そう?」
「あぁ。一生勉強ですとも、岬さんに関しては」
若林が長い手を伸ばして岬を引き寄せ、胸の内に抱きしめる。そして、その耳元に口づけるように囁いた。
「一生、な」
END
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なんて大盤振る舞いな!ありがとうございます♪
後から気がついたんですが、岬くん自身引っ越し慣れしてるから、
そんな意味でもうってつけのバイトですね。
こう、どんどん追いつめて行く若林君、反論できない岬くんのくだりは
正に試合運び、とうとう岬くんに「分かったよ」と言わせたとき、
きっと源三さんの頭の中では「ゴーーーーーーーーーール!!!」の
声がこだましたに違いないです。
人に甘えるのがど下手くそな岬くんが、何事も愛情直球勝負、それでいて細やかに気遣う源三さんを相手に、
こんな風に少しずつ甘えることを覚えていってほしい。素直に弱みを見せられる、甘えられる相手はやっぱり
源三さん以外にいないですよね!で、そのことが岬くんに好もしい変化をもたらしたりして、石崎君辺りに
「なんか岬、変わったよな〜。どこがってうまく言えないけどさ。」
とか言われるといいんですよ。ああ、今日もいいもの読ませてもらっちゃった!
ところで、裏設定というか、頻繁に数日留守にする十代の息子を一郎さんはどう思ってるのか。
なんかこの親子、
「父さん、僕、明日からまた出かけるよ。」
「そうか。気をつけて行くんだぞ。」
「うん。」
で、話が終わってそうな気がします。
でも、実は小さい頃から各地を点々としつつ、みっちり危機管理とか叩き込んであって(主に実践・体験型)、
全面的に我が子を信頼している究極の放任主義な親だといいな、と密かに思っています。
で、あんな細い目をしつつ意外に鋭い。
「ただいま。」
「おかえり。若林君は元気だったか?」
「…え…(絶句)。」
とか。なんでか二人のことを知ってて、でも別に息子が健康で幸せだったらそれでいいや〜ってスタンスでいてくれるのが理想の一郎さん像ですね。
個人的に若林君の飲んでるのが緑茶だったのがツボでした!
勢いに任せて書いたら、なんだか長くなってしまいました。お読みくださってありがとうございます。
そして、「旅費問題」解決の試案を頂きまして、ありがとうございました♪
色々考えた末、結局我が家のうの2人は、最初は一部負担、
途中から出世払いということになりましたよ。
パリ時代は例のユーレイルパスを使うとして、
2カ月間で6万7千円、その3分の1で約2万2千円。
まぁ、2か月で2万2千円なら一郎さんもなんとかしてくれるでしょう!
で、高校時代はそもそも年に3〜4回くらいしか会えないわけです。
「Hand in Hand」が高校1年の12月なので、
それまでに岬君が渡独したのは精々2回くらいかな〜ということで、
まぁ、なんとかなっていたんでしょう。
ところで南様、確かに岬君は引っ越し慣れしてますが、
岬君の場合、荷物はリュック1個ですから・・・
今回、流し書きの小ネタなので特にタイトルは考えなかったのですが、
書きながら「若林の詭弁」というタイトルが思い浮かびました。源三、しゃべるしゃべる!
普段の口げんかでは岬君が圧倒的に有利っぽいですが、
源三さんは人の上に立つ人だけに、弁が立つ人だろうと思っています。
唯一弱いのは岬君にだけですが、今回は頑張って頂きました。
若林源三、攻めの姿勢。甘やかしたいがために攻める源三です。
やっぱり、岬君をどーんと甘やかせるのは源三さんしかいないですからね!
そして、南様、鋭い!
実は一郎さん問題(?)については、
次回あたりLOOKING BACK のネタにしようかなと思っておりました。
なので、詳しくはその時に長々書くとしますが、
最初のうちはともかく、そのうち絶対気が付きますよね〜。
我が家の一郎さんはまさに「太郎が幸せなら」
の良い意味で放任主義の人なので、何も言わないです。
我が家の2人はわりとよく緑茶を飲んでますな。
個人的に源三さんって湯呑みに緑茶のイメージなんですよね〜。
おじいちゃん、もしくはおばあちゃんっ子で、
その影響で小さいころから緑茶が好きという脳内設定。
それにほら、なんと言ってもお茶所静岡の出身ですしね!
幼少のみぎりからよい茶葉を使ってそうです。
緑茶のくだりで思わず食いつかずにはいられませんでした。
そうか、じじばばっ子だったから、あの妙に達観した、
落ち着きのある風情が生まれたんですね。納得!
以前、友達のおばあちゃんが作った手もみのお茶をいただいたんですが、
こんなに味が違うの?というぐらい、なんともまろやかで深い味がしました。
今だに忘れられません。
源三さんにはぜひ、小さい頃から贅沢にも手もみのお茶を飲んでてほしいです。
本物を知ってるから、妥協しない。
「だから、お前なんだ。」
って、そこでまた岬さんを口説くわけです。
かおり様の一郎さん考察、楽しみです〜〜〜!
源三さんはやっぱりいいもの、本物を見抜く力ってのは抜群だろうと思います。
やっぱりこの辺りで育ちの良さってのが出ますよね〜。
そんな源三さんの 「だからお前なんだ」は説得力ありまくり。さすが詭弁家!
岬君にも是非、美味しいお茶を飲ませてあげて欲しいですね。
若林家御用達で市場には出回らないようなやつ。
庶民派岬君はグラム当たりの値段を聞いて、目を白黒させたりすると大変可愛らしいと思います。
小ネタ拝読です。これは、小ネタの域を超えてます!
金の切れ目が縁の切れ目・・・この2人はまったく切れていないけれど、源ちゃんと岬くんの関係が全て詰まっていますよ。
気をぬくとすぐに扶養したがる源ちゃんとそうはさせない岬くん。これ、この2人の生活すべてにおいてこの攻防が繰り返されている気がします。
岬の必死の応戦もむなしく、日々岬くんの扱いがうまくなっていく源ちゃんが目に見えるようですv。
一郎さん問題も、「自慢の息子」と言える父親って、なかなかいないと思うんですよ。これが出るたびになんとなく照れてしまうのですが、あの風貌の一郎さんが言うといいですよね。岬くんの独白好きは一郎さんからきているのでしょう。これだけ文字を背負うのが似合う父子もいないのではと。
源ちゃんとの仲も「よかったな、太郎」「幸せにな、太郎」と、静かに認めていると思います。
「ここまで来るのに、お前がどれだけの壁を乗り越えたのか、俺は知っている」
「若林君・・・」
がツボでした。
いつか、壁を乗り越える途中の岬くんと源ちゃんを・・・お願いします。
引っ越しのアルバイトの相方が井沢くんというのが、とっても嬉しいです。この2人が来ると分かっていたら、業者のまわし者のように周りの人すべてに引っ越しを勧めてしまいそう(自分が引っ越しを繰り返すのは金銭的に無理ですから)。実は、欲しいものがあるというのは嘘で井沢くんもドイツ行きの旅費稼ぎ?なぁ〜んて、あの同人誌の影響か?昔の同人誌の刷り込みか?(いずれも同人誌(#^.^#))で、勘ぐってしまいました。
以上、失礼しました。またの語りを楽しみにしています。
二つまとめてのお返事で失礼いたします。
長〜くなってしまった小ネタ、読んでいただきましてありがとうございます。
源三さんと岬君はずっと攻防を繰り返しながら生きて行くのだと思います。
ラブラブながらも慣れ合うことのないスリリングな関係。
年を取ってもこの調子なので、きっとボケることもないかと。
なお様に敬意を表して井沢君を出演させてみましたよ。出演って言っても、名前が出てきただけなのですが。
この2人だったら引っ越しスタッフのユニフォームも似合いますよね〜!
が、井沢君までドイツ行き・・・ そんな修羅場な・・・
いやいや、井沢君はちゃんと趣味のアイテムをゲットするためのアルバイトですとも!
どんな趣味なのか書きながらずっと考えていたのですが、結局思い浮かばなくてそのまんま。
このあたりが井沢道に未熟な私の限界のようです。
しかしホント、あのお話ってどういう結末だったんでしょう。もしかして未完?気になる!
実は、壁を乗り越える途中の岬君と源三さんはずっと書こうと思っていてなかなかまとまらずに放置してあったりします。
WY編は1回通して読んだだけ、2002編は多分最後まで読んでおらず・・・という感じなので、もう一度ちゃんと読み直したいと思っているのですが、なかなか。
今回、倉庫作業をしながらファイルの整理をしていて、そのほかにも放置プレイが多々あるのに我ながら呆れました。
温故知新でこれから少しずつ形にしていけたらいいなと思っております。